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「ああ、走った走った」

 は人の気配があるところまで一気に走った。ざっと2,30キロというところだろうか。
 そう簡単に疲れるような体ではないけれど、度重なる厳しい任務で体力はそれほど残っていない。
 ついた先には、護衛対象のうちの二人がいる。
 遠くから様子をうかがうと、一人は軍のトップで、もう一人はどうやら剣を扱うタイプではない。参謀という言葉の方がしっくりくるだろう。

 それだけ確認して、疲れた体を岩に預けて少し休憩する。休むという事に慣れない体は、なかなか落ち着こうとしない。
 いつでも動き出せるように常に準備された状態で、はため息をついた。

「そろそろ寝ないと、やばい………よね」

 でも寝ないことに慣れすぎて、ちっとも眠くならないというのが正直なところだ。

「ここにいれば何かあればすぐにわかるし、時間かけて寝よう」

 二人に一度意識を集中して気配の特徴を覚え、寝ていてもどこにいるかわかるようにだけしておく。
 その後ゆっくりと目をつむって、は浅い眠りについた。





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「君主様!お逃げください!!」

 孔明の視界の端で、素早く動く影があった。本気で鍛えていたわけではない剣の腕では、屈強な男たちの前では自分でさえも満足に守れない。
 生憎と戦場で頼りになる他の武将たちはここにはいない。少なくとも大声を出し手届く範囲には。剣のぶつかり合う音を聞いてやってきた兵士も、殺されてしまっていて誰も来ないだろう。

 迂闊だった、と剣を振りながら孔明は思った。曹操軍はまだたどり着かないだろうと思っていた自分が間違っていた。
 この者たちは曹操が差し向けた暗殺者かそれとも軍人かは知らないが、少なくとも劉備の命を狙っていることには間違いない。
 そして君主と二人で軍から離れてどうして何も起こらないと思っていたのだろう。

「お早く!」

 二人ならダメでも、せめて劉備が逃げるくらいなら戦えるかもしれない。いやそうでなくてはならない。
 自分の過ちはすでにどうでもいい。この時点で孔明はすでにどうやって劉備を逃がすかということに頭を使っていた。
 劉備は自分がいない方が存分に戦える。ここで自分が足止めをすれば、彼ひとりでそう遠くない軍までたどり着けるだろう。
 今敵の五人のうち四人は劉備に向かっている。その全員の目をこちらに向けてやればいい。

「しかし、お前はどうするのだ!」
「私のことはお気になさらず。君主様がここから逃げることが最優先です。お気をつけて!」

 無心に剣を振る中で、いやな予感を振り払うように叫ぶ。劉備はその言葉に従って走り始める。
 一人が劉備を追おうとするのを見て、孔明は立ちふさがるように剣を構えた。

 何としても、彼の後を追わせてはならない。ここで死ぬつもりはなかったが、たとえ死しても彼を守らなければならない。 
 握りなれない剣を握りしめる手がいやな汗をかいているのがわかった。

「それでも、ここは通しませんよ」

 5対1。これでは時間稼ぎもほとんどできない。

「………ふっ」
「何を笑って……?」

 5人のうちの一人が、剣を下ろしたまま笑った。リーダーなのだろう、見る限りは一番落ち着いている。
 剣は構えていないが少しも隙はなく、とてもじゃないが勝てるとは思えない。
 彼らは孔明が劉備を逃がしてから攻撃の手を緩めている。

「……そういうことですか」

 つまり、狙いははじめから劉備ではなくこの孔明であった、と。

「では、なぜもっと早く私を殺さなかったんです?」

 いくらでも殺すタイミングはあったろうに。そうでなければ、何の目的があったのか。

「勘違いをするなよ?お前は殺す。ただあんまり簡単に殺しちゃつまらんだけだ」
「それだけのために、私に君主様、劉備様を逃がすだけの時間をくださったのですか」
「まあ、そういうことになるな。俺たちが本気でかかれば、逃げられないのはわかっているだろう」

 さて、もういいか?と男は言う。無造作に下げられていた剣を握る手がゆっくりと持ち上げられる。
 殺気をぶつけられて、この男はいよいよ私を殺すのかと孔明は思った。常に冷静でいようと自分に言い聞かせていた言葉が、今になって脳裏に蘇る。
 無理だ。冷静などなれはしない。戦場に出ても、戦闘に出たりはしなかった。命の危険は何度体験しても前もって腹をくくっていた。命を狙われても、それは先の見える決して切り開けないことはない、そういうことばかりだった。
 夢がついえようとした今、それほど冷静でいられてるとは思えない。

「あなた方は、曹操の手のものですか?」
「ソウソウ?知らんな。俺たちは俺たちのためにお前を殺す。それだけだ、ほかに何がある?」
「そうですか、それならひとつ聞かせていただきたいことがあります。あなた方は私を殺すことで、何が得られるのでしょうか」

 曹操の名を聞いて、男たちは本当に何も知らない顔をした。人を見る目に自信はある。
 孔明は少しの希望が見えたと思った。交渉次第では、切り抜けることもできるかもしれない。
 しかし、男が発した言葉は孔明には少々理解しがたいことだった。

「お前だけじゃなく、あの劉備とかいう男も後で殺すが、そうだな…………この世界を滅ぼすとでもいうか」

 他の四人がにやにやと笑っている。下品な笑い方だ。
 この世界を滅ぼすとは、どういうことだ。それにこの男は君主様も殺すと?

「ま、死ぬ奴にはどうでもいいことだろう」

 男は言いながら、持ち上げた剣をいよいよ孔明に向けた。
 逃げなければと思いながらも、情けないことに体はちっとも動かない。

「じゃあな、デッド・エンドだ」

 素早く振り下ろされる剣。それがやけにゆっくりに見える瞬間。

『それは、困るな』

 剣をはるかに上回るスピードで、黒い何かが視界をかすめた。












(2008.12.6)