01. Rien dire au revoir.

 恐ろしいことに、見れば見るほど街は私がいる日本とは違っていた。
 自分の勤めていた会社もなければ、昔通っていた大学はおろか、住んでいた家も、自分の両親も、そう、戸籍すらも存在していないようだった。
 携帯電話は使えないし、持ち物は身につけている服と、海外出国用に準備していた荷物だけ。お金は幸いにして同じだったため、食事だけならなんとか数週間は維持できそうだが、宿泊となると今度は数日しか持たないし、お金を得ようにも、働くことさえできないだろう。
 そして今は2003年だということに私はとても驚いた。過去に来ている?いや、まだわからない。過去に来ているなら、なぜ祖国が私の知らないものばかりであふれているんだ?

「………野宿?」

 天の助けは絶対ない。それは確信している。そんな都合のいい話があるはずがない。とはいえどこにも行かずこのまま立っているわけにもいかない。
 仕方なく私は監視カメラの一切ない、単純な施錠だけの今は使われていない小学校に侵入することにした。(趣味が幸いして、ピッキングは得意だった。)
 加えて10月は天気もだんだん悪くなり、寒くなっていく時期だ。ついさっきまで7月の太陽の下にいたのだから、いくら出国先が冬だったとはいえ、日本にいるうちはそれほど厚着をしているはずがない。
 風邪などを引いたらいっかんの終わりだ。私自身そんなつもりはないが、一度風邪をひくとなかなか治らない。風邪がいつの間にか喘息か肺炎になり、あれよあれよという間に布団で1,2週間寝込む羽目になる。いや、今はその布団もないか。
 昔はよく入院して親に怒られたっけ。学校の健康診断でも、必ずレントゲンは一度目でひっかかる。精密検査のために病院に行って、レントゲンとCTを撮りなおす。いつものことだ。あれは面白かった。自分の輪切り。
 医師の操るマウスに合わせて、モニターの画面に映った自分の輪切り写真が動いていくさまを見るのは、なかなか愉快だった。私の担当の先生は話の分かる人で、輪切りの画像のうちの二枚をコピーしてプレゼントしてくれた。今でも大切にとってある。

 …………いや、話がそれた。
 いずれにせよ、ここ数日でわかっている唯一のことは(根拠はないが)、おそらくこの悪夢が覚めることがないということと、自分はこれからギリギリのところで生きていかねばならないということだった。
 あの幸せだった時間は、戻っては来ないと。

 ――――――不思議だ。それなのに私は、ここで生きようとしている。



 +++++




 ここに来てから、1か月と数日がたった。今はアルバイトや短期派遣をしながら、ネットカフェ難民となり毎日を生き延びている。
 学歴やなんかは適当にごまかしておいた。
 毎日大した稼ぎはない、というよりむしろぎりぎりだ。そのおかげで何も考えずに毎日を生きていけるが。
 明日も明後日も明々後日も、私はこうして生きているんだろうか。
 あんなにニュースで騒がれていた雇用問題が、私の身近な問題として挙がってきたのは当然の結果だ。状況はちょっと違うけれど、似たようなものだ。どちらにせよ、毎日どう生きるかで必死なのだから。

「日本の未来が思いやられるね」

 まあ、私がいつまで生きていけるかというのもあるけれど、先は芳しくなさそうだ。

 今日の新聞紙にざっと目を通す。はパソコンのキーボードをリズムよく打つ。入力しているのは、最近起こった事件だった。
 は昔から、世の中で起こった事件を記録している。新聞、雑誌、ネットなどから信憑性の薄いものまで、その事件について調べたものをまとめておくのだ。
 それは完全にの趣味でしかなかったが。(そして、一度完成されたデータはほとんど100%再び目を通されることはなかった。)
 長年続いた癖というのはなかなか消えないもので、は慣れた様子で新聞とモニターを見ている。

「11月28日は………音原田九郎の事件で終わりだな。これで昨日までの事件は入力終了で、明日は12月の、え〜っと、2日か」

 ここ数日で心臓麻痺で死ぬ犯罪者が激増した。来月も増え続けるんだろうなぁ、とはため息をついた。
 同時に、事件の捜査状態を知るために侵入していた警察庁のホストコンピュータとの接続を切る。
 殺人の方法もどこの誰が犯人だか知らないが、これは殺人事件だ。世界中の事件をよく見ていれば、馬鹿でもわかる。

 はパソコンの電源を切って横になる。11時間ほどずっとパソコンにかじりついていたから、さすがに疲れた。
 警察はまだ動きを見せない。この事件の危険性を分かっているなら、もう動き始めなければならないだろうに。

 この事件の始まりは日本なのだからこの事件の始まりは日本なのだから・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「でも、キラ事件…………どこかで、聞いたことがあるんだよな」
 
 今までの事件と似ている事件名?検索間違い?
 
「いや、そうじゃない」
 
 過去の事件であれば、これほどの大きい事件を忘れるはずがない。少なくとも始まりが日本であるのだし。
 キラ事件、キラ………キラ。どこかで聞いた言葉。どこかで。
 
「記憶にはある。それは間違いない」
 
 自身が、始まりが日本であることをわかっていたかのように、疑いもなく日本の事件から調べて、初めのキラ事件を見つけたから。
 記憶のどこかには間違いなく残っている。ただ思い出せない。
 
「―――――キラ事件、キラ、キラ、キラ」
 
 ああ、もどかしい。
 狭い部屋で頭を抱えてゴロゴロと左右交互に転がる。うー、思い出せない!
 
「キラ、KILA、KILLER?…………あ、ああ、あああああ!!」
 
 思い出した!!
 
「これは、デスノート!」
 
 友達に借りて読んだ漫画だ。映画も誘われて見に行った。そうだ、最初の事件は音原田九郎の事件。
 事件名が一致している。確か、日付も。それだけ見ても、デスノートと無関係でないことがはっきりする。
 
 …………いや、でもまさか、そんなことって、あり得るか?
 よりによって、物語の中に入り込むなんてことが、本当にあり得るのか?
 
「私の陳腐な頭じゃ、わからないか」
 
 もしも私の頭がおかしくなっていなくて、なんらかの理由でこの世界に入ってしまったのだとしたら。
 帰れるのか帰れないのか。一生ここで生きていくのか。それとも?
 
「これぞほんとの神隠し、か」
 
 その答えがわかったところで、誰にもどうすることもできないだろう。そもそも信じてもらえるかどうか。
 いずれにせよ私が今するべきは、事件を追うことではなく、明日を憂うことでもなく、明日の仕事のために体を休めることだ。
 
 6日ぶりのゆっくりな時間。つもり積った疲労が、私の思考を止めた。
 
 
 
 +++++
 
 
 
「デスノートなら、確か見た映画の記録はほとんど取ってあるから…………」
 
 仕事が終わってからまたパソコンを開く。眠い目をこすってデータを確認すると、思っていた以上の情報まで記録されていた。
 
「あった。あ、そっか、頼まれて余計なデータまで入れておいたんだった」
 
 年表、キャラのプロファイリング、デスノートの使い方まで記録されていた。自分は作ってから一度も目を通していないので、作ったときのことはほとんど記憶に残っていない。
 まさか、それが今役に立とうとは。
 
「一度寝たら、データを見直そう」 
 
 さすがに6日徹夜の後、12時間しか寝ていないから、今にでも目が閉じてしまいそうだった。
 あぁ、でも。
 何も見なくても、あの人だけは思い出した。目の下の酷いクマ。猫背。いつもおなじTシャツとジーンズ。履きつぶしたスニーカー。
 
 世界の切り札と称される、唯一の存在。
 
「L=Lawliet」
 
 年齢性別ともに不詳。その名前ですらも、一切世に出てきたことがない、謎の人物。
 一人なのか複数なのか、それですらも定かではない彼の人は解決不可能とされた事件を次々と解き明かしていく天才だった。
 その存在が、この世界に入る。
 
「Lと同じ世界に、今は立っているのか」
 
 …………いいのか悪いのか。
 は頭を抱えたくなった。自分の性格は少しくらいわかっているつもりだ。
 たとえば、下手に世界について知っていて、もしかしたら“あるべき未来”よりも犠牲を減らせるかもしれないとわかっていたら。
 
 介入せずには、いられないだろうということくらいは。
 
「死ぬよね、間違えたら死ぬよね、しにゅ……」
 
 …………寝ようか、もう。
 なんか、だめだ今は。何でも空回りしてしまいそうだ。
 
 寝ぼけた頭で何とか電源を切って、パソコンを横に置く。
 横になると、もうあたたかさで目が半分とじた。
 



Rien dire au revoir.(さよならさえなしに)――――覚悟さえなく、流されたままで